虐殺器官

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

期待はずれだったと言わざるを得ない。

解説にある「(略)文章力や「虐殺の言語」のアイディアは良かった。ただ肝心の「虐殺の言語」とは何なのかについてもっと触れて欲しかったし、虐殺行為を引き起こしている男の動機や主人公のラストの行動において説得力、テーマ性に欠けていた」という小松左京の選評(1部)の通りだと思った。

ルツィアやジョンポールとのやりとりにおける文学的な部分はなかなか面白かったが、どれも最近読んだ本に書かれていたことであったため、個人的には刺激が足りなかった。

母、アレックス、ウィリアムズ、ジョンポール、ルツィア全ての人間との絡みがあと1歩ずつ欲しかった。どれも一歩手前のところで終わってしまっている。まぁ、人生なんてそんなものだと言えばそうかもしれないが。

ただ、主人公が考える「自由」についての概念については共感できる部分があった。

長くなりそうなので、残りはブログの方に。
http://mediamarker.net/u/muranoki3/?asin=4150309841


主人公とルツィアのやり取りをさらに楽しむにはこちらを読むといいと思う。

幼児化するヒト - 「永遠のコドモ」進化論

幼児化するヒト - 「永遠のコドモ」進化論


対して、主人公とジョンポールとのやり取りについてはこちらを。

勝つためのゲームの理論―適応戦略とは何か (ブルーバックス)

勝つためのゲームの理論―適応戦略とは何か (ブルーバックス)

自由について

自由とは、選ぶことができるということだ。
虐殺器官』 p354 l3

というのはまさにその通りだと思う。
そして「選択する」ということは同時に、「選択しない」ということでもある。


本編では、主人公が「自分の意志で選択したことには責任を負うべきだ」と言っている。
「自由の行使」とでも言うべきだろうか。


ではなぜ、自分の意志で選択したことには責任を負うべきなのか?
それは、人が自分一人では生きていけないからだと僕は思う。


自分の選択が自分自身の人生の中だけに帰結することなどあり得ない。
そもそも「自分自身の人生」なんてものはあるわけがないのだから、
当たり前と言えば当たり前なんだろうけど。


だから、自分の選択は必ず誰かの選択に影響を与えることになる。
よって、自分の意思で選択したことには責任を負わなければいけないのだ。

不自由について

自由を上記のように定義付けるのならば、
不自由とは、「自分の意志で選択できない状態」と言える。
(自由、不自由を”状態”と定義していいかどうかという問題は今回は置いておく)

例えば、盲目の人には「目で見る」という選択肢は与えられていないので、
彼ら(彼女ら)は、その点に於いて不自由だと言える。

しかし、一概にどちらがいいとは言い難い。
上述したように、選択するということは同時に責任を負うことでもある。
それにより人々はどんどん不自由になっていくのだ。


こう考えると面白い。

人は自分の意志(受精卵レベルで個人の意志があるかどうかは定かではないけれど)とは無関係に、
この地上に産み落とされる。

ここに上述したことを当てはめれば、
人は、他人の(この場合、両親の)自由の行使によって、生まれた究極の不自由である。


そして、これまた他人の自由の行使によって、徐々に自由を与えられていく。
そうして今日の僕らがあるわけだ。


さらに面白いのは、人は皆、最終的には死という不自由に行き着くということだ。
自由の行使が不自由を生み出し、また自由を行使しながら不自由へ行き着く。


自由と不自由について説いた哲学者って誰がいるんだろう?
本読んでみたい。

哀悼の意

解説を読んで初めて、著者伊藤計劃氏のことを知った。


これがデビュー作という驚きと、
また、ここに書いた物足りなさを埋めてくれる作品をもう読むことはできない事実も知った。


勝手に期待して、勝手に期待はずれだと言う、
こんな図々しい読者の書評ですが、
そちらでお暇なときにでも読んでくださればと思います。


ご逝去を悼み,この書評を哀悼の意とさせていただきます。